Netzの新たなスローガン“Netz the Creative”

「創造的な、独創的な人たち」という意味をもち、新しいことにチャレンジし、クルマの楽しみをクリエイティブしていく集団でありたいというNetzの意気込みと、さらにその意気込みをお客様に共感していいただき、ワクワクを感じてもらいたいという2つの想いが込められています。

Netz STYLE STUDIO

吉井和哉

LIVE[2011.03.25]

吉井和哉

「人生最大の衝撃!」

初めてライブを観たのは、静岡に住んでる時、駿府公園っていうところの広場でよく野外ライブをやってたんですよね。そこに来たBOWWOWっていう日本のハードロックバンドを観に行きましたね。その時は、これが「ロックかぁ!」なんて思って観てたんですが、中学卒業して、ハンバーガー屋さんでアルバイトをする前、喫茶店でもアルバイトをしてまして、その喫茶店でアルバイトをしてる時に、THE YELLOW MONKEYの前に僕がやってたバンドのメンバーと知り合って、その後そのバンドに加入するという運命だったんですが、その先輩のやってたヘビメタバンドをライブハウス観に行ったりして、サーカスタウンっていうライブハウスが駅の近くにあって、そこによく出入りするようになりました。そこでたくさんのライブを観ましたね。本当にいろんなライブを観てきて、自分もライブをするようになって、僕は17歳で初めて大阪でツアーやったんですよ。ホテル関西っていうホテルに泊まってましたよ。ホテカンって言ってね、安かったんですけどいいホテルでしたね、今思えば(笑)で、そのバンドは解散してしまったんですが、まだハタチ前だったし、まだもうちょっとバンドやりたいなぁって思って、THE YELLOW MONKEYを結成して、ライブをやるようになったんです。その後無事にデビュー出来て。。。その頃のライブスタイルっていうのは、割とグラムロックのスタイルがベースになっていて、結構MCとかで、お姉さん言葉を使ったりして、ちょっとナヨナヨした感じだったんですが、1994年だったと思うんですけど、渋谷にJEFF BUCKLEYというアーティストが来るってことで観に行きました。その時の衝撃を思い出すだけで、今鳥肌が立ってるんですが、彼のお父さんは、TIM BUCKLEYっていう有名なシンガーソングライターの方で、TIM BUCKLEYもJEFF BUCKLEYが生まれてすぐに亡くなっていて、JEFF BUCKLEYは、実はお父さんのことをあまり好いてなかったって本で読んだんですが、でも親子で声がそっくりで歌い方も似ていて、血の争えない感じっていうのも当時聴いてね、感慨深かったんです。。。そのJEFF BUCKLEYのライブは、本当に神を観ているようでしたね。そこから僕は、自分のライブもこうやって人に衝撃を与えないとダメだ、本当に歌で圧倒しないとダメだって、価値観をまるっきり変えてくれた、人生で最大の影響を受けたライブでした。

そんな彼が、この世に唯一残している正規盤の1STアルバム、この1枚だけで他界してしまったんですが、そのアルバム「GRACE」の中から1曲。「HALLELUJAH」。

「1994年。」

1994年くらいって、結構自分にとって衝撃的なライブばかりで、同じ時期にLOU REEDが来日しました。初めて生で観て、たしか中野サンプラザだったと思うんですが、この会場がね、劇場みたいな感じで、舞台を観てるような感覚に陥るところなんですよ。あと、パンクの女王と言われているPATTI SMITHも来日したんですよね。このアメリカパンクの二大巨頭が来た年でしたねぇ。LOU REEDの声、佇まい、ギターの音。。。全然演奏とかも派手じゃないし、割と地味に展開するし、低い声でボソボソ歌うから、はっきり言って何言ってるか分からないんですけど、かっこいいんですよね〜。
激しくないんだけど、ものすごくロックンロールを感じたというか、その94年の一連のアーティストのライブを観て、僕のライブパフォーマンスも変わっていって、後々THE YELLOW MONKEYもたくさんのツアーが出来るようになって、そんなバンドのボーカリストになれたのかなって気がします。

「TRANSFORMER」っていうアルバムに収録されているLOU REEDの曲を聴いてもらいたいんですが、このアルバムはDAVID BOWIEが、彼のギタリストであるMICK RONSONと一緒に共同でプロデュースしようって言って生まれたアルバムで、大好きなアルバムなんです。音もカラフルでポップなんだけど、どこか退廃的っていう、今でも大好きなアルバムです。その中から「PERFECT DAY」!

音楽[2011.03.18]

吉井和哉

「初めてのエレキギター!」

音楽が全ての僕ですが。。。僕が音楽に興味を持ったのは、昭和の歌謡曲ですね。僕が小さかった頃は、昭和歌謡曲黄金時代でしたからね。いろんな親戚のおばさんたちがカルトな歌謡曲のシングルなんかを持っていて、普通のポップな歌謡曲はもちろん、演歌も聴いてましたし、所謂スナックでかかるようなラテンムード歌謡みたいなものも好きでした。本当にいろんな歌謡曲に影響を受けましたね。その後、中学生になって洋楽を聴くようになって、CHEAP TRICKとかDEEP PURPLEとかが学校のクラスで流行って、僕もエレキギターを弾いてみたいなと思って、お金を貯めて、最初のエレキギターを1万円で買ったんです。グレコという、僕らの世代では、超有名な国産メーカーの黒のレスポールを買いまして、いろんな音楽をコピーしてました。その頃一緒にギターを弾いていた友達がいて、彼のお父さんがTHE VENTURESのマニアで、彼の家にベンチャーズのレコードがたくさんあったんです。僕たちの世代では無いんですが、「かっこいいよねぇ〜。」って言いながら、ベンチャーズも一緒にコピーしてたんです。今思うと、ベンチャーズってパンクの原型でもあるなって思うんですよね。60年代の来日公演の映像もあるんですけど、ドラムがやっぱり凄いです!ギターが目立っているグループと思われてますが、僕は何気にベンチャーズはドラムがやっぱり肝だなって思いますね。あの縦のビートを完璧に叩きこなせてこそ、ベンチャーズのあのギターが生きるんだなぁって思います。僕の今回のアルバムでもそうですけど、そういう部分っていうのは大事にしているところですね。

ここで、ベンチャーズの「10番街の殺人」っていう曲を聴いてほしいんですけど。この曲は元々映画のサントラだったそうなんですが、それをベンチャーズがギターのインストゥルメンタルでカバーしたんです。その後、僕は、DAVID BOWIEというアーティストにどんどん影響されていくんですが、彼の横でギターを弾いていたMICK RONSONっていう僕の大好きなギタリストがいるんですけど、彼もソロアルバムでこの曲をやってるんですね。今になって振り返ってみると、好きな音楽って必ず共通点があるなぁと思います。

「青春=IRON MAIDEN!」

僕らの世代というか、僕だけかもしれないけど、MTV世代なんですよね。ギターを弾く少年にとっては、あまり嬉しくない音楽環境だったんです、実は。唯一、日本に入ってきているムーヴメントで、ニューウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘビーメタルというものがありました。その代表格と言われているIRON MAIDENが大好きで、彼らの影響っていうのは、けっこうありますね。THE YELLOW MONKEYの楽曲にもけっこうIRON MAIDEN入ってます!DEEP PURPLEとかRAINBOWとか、イギリスのニューウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘビーメタルの影響が出ていて、今回のアルバムでも、「クランベリー」という曲が、割とそういうIRON MAIDENだったり、BLACK SABBATHだったり、あとは、今のTHE WHITE STRIPESだったり最近のギターノイズバンドを混ぜたような曲にしたりしてね。しかし、IRON MAIDENは、コピーしましたねぇ〜〜。ファーストからサードまでは、ほとんどコピーしましたね。IRON MAIDENの手癖で僕の曲が出来てるといってもいいくらいです(笑)確実にそうです。

さっきの話に出てきた、ベンチャーズを一緒にカバーしてた友達と、IRON MAIDENもコピーしてたんですけど、彼の方はDAVE MURRAYという下手側のギタリストの役で、僕は上手側のADRIAN SMITHという、ちょっとルックスのいい方のギタリストの役で、友達の6畳くらいの和室の部屋で、ステレオでIRON MAIDENをかけながら一緒にやるんですよ。ちょっと津軽三味線の絵みたいになってる時があるんですけど(笑)それが楽しくてねぇ。僕は当時、大手ハンバーガー屋さんでアルバイトをしていて、そこから家に帰るまでの間に彼の家があったので、バイトが終わると彼の家に寄って、練習してたんですよね。そのときに覚えたことっていうのは、今すごく身になってるというか、しかも今、僕EMIに所属していまして、同じレーベルですからね、IRON MAIDENと。相当自慢してますよ!!

IRON MAIDENはやっぱりファーストとセカンドです。ボーカルはPAUL DI’ANNOって言う人が在籍していて、サードから変わってしまうんですけど、今のBRUCE DICKINSONもかっこいいんですけど、このPAUL DI’ANNOがね、実はグラムロック好きなんですよ、ここも繋がってる!あとはパンク好き。当時、ヘビメタ界では恥ずかしかったと言われている短髪です。異端児!そういう初期のIRON MAIDENの曲を是非聴いて欲しいです。「WRATHCHILD」。

フィッシング[2011.03.11]

吉井和哉

「釣りにハマったワケ。」

僕がそもそも何故釣りを始めたかというと、すごくシンプルで、亡くなった父の趣味が釣りだったんです。うちの父親は26歳の時に亡くなってるんです。僕は5歳でした。当然、一緒に釣りに行ったことはないんですが、母親から、父は釣りが趣味で、海釣りで黒鯛を釣る人だったと聞いたんです。実際は3匹くらいしか釣ったことがなかったみたいなんですが、黒鯛って言ったらね、釣りの大道というか、横綱みたいなものなんですよ。

僕は小さい時に父を亡くしたので、釣りをしてると父と一緒に居られるんじゃないか、みたいな気持ちがどこかにあったのかなと思うんですけどね。ちょうど小学校5,6年生の時に、ルアーフィッシングブームがありまして、当時僕がハマったときは、国産製のルアーがあまりなくて、はっきり言ってしょぼくてですね、アメリカ製のルアーがメジャーだったんですね。そのアメリカ製のルアーが本当にカラフルで、のちのちロックのカラフルさと僕の中で繋がるんですけど、そのルアーっていうものを集めたいなという衝動に駆られまして、まず僕がルアーに釣られてしまったというのがスタートですね。静岡には、ブラックバスを釣れるところがなかなかなくて、あるちょっとした池の公園で雷魚っていうちょっと気持ち悪いのがいるんですけど、それが同じようなルアーで釣れるぞってことで、自転車で約1時間くらいかけてその池に通うんですが、行けども行けども釣れず…というような釣り生活を小学生の頃はしてました。で、初めてお小遣いをためて、河口湖というブラックバスのメッカに行って、最初の魚を釣ったときの嬉しさと言ったら…。そうやって僕は釣りにハマって行きましたね〜。

ではここで一曲。このアーティストも、ある意味ルアーです。もの すごくいろんなものをフリますね。JAMES BROWN「SEX MACHINE」。

「釣り=ナンパ?!」

今ハマっているのは、バスフィッシングなんですが、正直、琵琶湖でしかやりません。関東方面でも、千葉とか山梨とかにも釣れるところはあるんですけど、新幹線で京都まで行っちゃいます。新幹線で京都まで行く2時間が僕にとって重要なんです。売店でアイスコーヒーを買って、音楽を聴きながら、自分の曲を聴きながら、歌詞を書いたりメロディーを考えたりして、京都について、京都からタクシーで、時には釣りの師匠に迎えに来てもらい、20分かけて滋賀に行くんですけども、この迎えに来てくれる車がね、バスフィッシングの釣り人たちのステイタス!ランドクルーザーなんです。僕も持ってるんですけど、これに竿をつんで行くのが夢なんですね。その車の中で曲を聴いたり、もちろん802もしょっちゅう聴いてますよ。で、ワクワクしながら、釣りの師匠「ひでちゃん」に、最近の琵琶湖はどうなんですか?なんて聞きながら行くんですよ。ボートハウスに着いて、ボートを湖面に浮かばせた時のあの恍惚感というか、また俺は琵琶湖と一体になってるぞ!と(笑)ボートを走らせて目的地まで何分かかけて行って、そのファーストアクションっていうんですかね、ルアーを投げた瞬間のあのドキドキ感!これはね、ナンパみたいなもんですね。ナンパに相当近いですね。いい歳して、もう僕はナンパしませんから、ハントに近い魅力がありますよね。ルアーっていうのは、日本語に訳すと「誘惑」っていう意味なんで、その通りだなと思いますね。釣りって釣った魚を食べるでしょ?でも僕は食べないです。僕にとってブラックパスは犬とか猫と同じ仲間なので食べられません。可哀想で。ブラックバスとの駆け引き、やりとりがありますよね。ライン切れる!でかいでかい!やばい!みたいな。最終的には口をつかんで穫るんですけど、穫る瞬間に糸が切れたときの悔しさ!ブラックバスっていうのは、そのファイトを楽しむものなので、別にそこで切れてもその数分間楽しかったからいいやと思えるかもしれませんが、切れたときのあの、何?せっかく部屋までつれて来たのに、シャワー浴びてる間に帰ってしまった!くらいの気持ちと同じなんです(笑)そういう醍醐味がありますねぇ。

ということで、ここで一曲!BRYAN ADAMS「HEAVEN」。なんだ、この選曲(笑)

ザ・クリエイティブ[2011.03.04]

吉井和哉

「手作りロックエプロン!」

音楽をクリエイトする上でのこだわりを語ってみたいと思います。
楽器を始めた頃に遡りますと、中学3年生の頃に当時流行っていた洋楽、昔は「ミュージックライフ」という洋楽専門誌があったんですね。その雑誌はすごくメジャーで、当時はインターネットも無いし、何もない時代でしたので、もちろんテレビでもロックなんて全然オンエアされない時代で、そんな時代に唯一情報をゲットできるのがそういう雑誌だったんですね。それで「かっこいいなぁ、ロックミュージシャンって!」と思って、曲もハードロックとかヘビーメタルとか、AORなポップスとかいろいろあって。同級生に誘われてエレキギターを買ったわけです。中古で5000円くらいのもので、当然コードは押さえられないので、単音でコツコツやってたんですけど。で、中学を卒業した僕は、喫茶店でアルバイトを始めたんです。ある日そこに「ミュージックライフ」に出てるような長髪のローリングストーンズにいそうな鳥顔のミュージシャンがやってきたんです。僕は、エプロンにAC/DCとか、アイアン・メイデンとかマジックで書いてたんですね(笑)。それを見た鳥人間に、「お前、ロック好きなのか?」って言われて、「はい、好きですけど。」って答えたら、「今度、俺たちのライブがあるから観に来いよ。」って言われて、まぁ暇だったし面白そうだったので行ってみたんです。ある意味、そこが“衝撃”だったのかなと思いますね。そこから僕は、後々そのバンドに加入することになってしまうという。。。そのバンドでメインで曲を作っていたのは、鳥人間=リーダーだったんですけど、そのリーダーが作る曲が僕は好きで、正直すごく影響を受けていると思いますね、未だに。基本的に彼が作ってた曲はブルースがベースになっているロックというか、そういうものを自分も一緒に活動しながら、覚えていきました。で、そのバンドが解散してしまい、僕はイエローモンキーというバンドをひとりで結成しようと試みまして、そこからコツコツと曲を作り始めたんです。最初は曲を作るのは難しかったというか大変で、ほとんど勘で作り出したんですが、その勘がその後功を奏したといいますか、現在に至るという感じです。

では、静岡でその鳥人間に出会った頃によく聴いていた曲を。。。

CHEAP TRICK「SURRENDER」。

「言葉への責任。」

初めて歌詞を書いたのが、イエローモンキーを結成しようとしてた時なんですね。所謂、当時80年代後半にヒットしていた曲の歌詞が自分的に納得いかないと、生意気にも思っていたんです。
で、初めてちゃんと書いた歌詞が、ある裏通りの夜中の娼婦の悲しさを歌った曲だったんですね。「LOVERS ON BACK STREET」っていう曲だったんですけど。そのサビの最後に「あなたにもお花をあげましょう」って歌詞ができたときに、光が射したっていうか、妙な自信がついたんですね。で、イエローモンキーでどんどん曲を作るようになって、初期の頃は本当にオンエア出来ないような歌詞ばっかりでしたね。変な横文字、変なは虫類、変な隠語。そういうもので構成されていたんです。イエローモンキーも3RDくらいまでは、割とカルトな感じで活動していて、ある時、ディレクター、事務所の社長、バンドのメンバーはあんまり言わなかったけど心の中では思ってたのかな、「吉井、もうちょっと分かりやすい歌詞書けないか?」って言われて、「そうだね、このままじゃ売れないし、もうちょっと分かりやすい歌詞書いてみようかな。」って言って書いたのが、「太陽が燃えている」とか90年代半ばくらいの曲ですね。「SPARK」とか「JAM」とか「楽園」とか調子こいて作って(笑)、自分の歌詞のスタイルっていうのが朧気に見え出したのが、歌詞を書き出して10年後くらいでしたね。やっぱり未だに歌詞を書くのは辛いですね。一番嫌です。曲はいくらでも作れるんですけど。奥田民生さんも同じこと言ってるんですよ。「適当にめちゃめちゃな英語で済むなら、本当にそれでいいよね。」って。まぁでもそうはいかないなっていうのもあって。ただ、言葉にすごく責任を持っているというか、自分の歌にのる言葉に責任があるから、ゆえに、すごく嫌な作業と変換してしまうんだろうなとも思うんですけど。で、最近40代半ばに差し掛かろうとして思うのは、良い曲には必ず良い言葉がのっているということですね。いくら良い曲を書いても、歌詞がダメだとやっぱりダメな曲になってしまう。良い言葉が全てのテンションとか情熱とか、そういうものを生み出すというかね、良い歌を歌わせるなぁと思うようになりました。

ここで、一曲。ロンドン、鉛色の空、シトシト雨、そんな街にぴったりな曲を。。。

DAVID BOWIEの曲なんですけど、彼が作る曲は、すごくパロディーがきいていて、おしゃれで、ロックで、ブルースでもあり。僕にとって“ブルース”っていうのがキーワードなんだなって最近気づきましたね。DAVID BOWIE「LIFE ON MARS?」